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で一対一でとらえる必要があった。
昭和三九年(一九六四年一六月一六日に新潟地震が発生し、東京を含めた首都圏の地震対策が動き始めたが、その作業の過程で、昭和三六年に相続いて出されていた、地震対策のための研究資科が公開された。その一つは昭和三六年七月に出された東京消防庁の「東京都の大震火災被害の検討」であり、もう一つはそれより少し早く出された警視庁・自衛隊の「大震対策研究資料」であった。
「東京都の大震火災被害の検討」は、大正一二年(一九二三年)の関東犬震災の際の木造家屋の倒壊が、地盤の良否に関係していて、沖積層の厚さが厚いほど倒壊率が高いと考え、区別に倒壊数を出し、倒壊数と出火数の関数関係から出火を求め、そのうち消火できなかったものが延焼火災となるというシナリオだった。一番シビアなのが冬の夕食時で、七三二件の出火のうち二九九件が延焼火災となると書いてあった。出火の検討は、夏と冬それぞれ早朝と夕食時が計算されていた。
延焼は市街地の状況に応じた延焼速度比を求め、それを使って火災の拡大が計算されていた。「大震対策研究資料」の方は、現実の都市の状況を、できるだけ詳しくデータとして把握しており、いろいろな事態に対応して被害の見積が出来るようなデータ集であった。この両報告書の方法論の違いは、きわめて興味深いものであった。
私は、いずれ近い将来コンピュータが発達して、都市の個別レベルのデータが都市レベルで図化されるような形で処理できるようになるとすれば、どのようにすれば、都市全体の安全を管理するシステムが構築できるかを考え、一九六五年に「都市安全管理システム(図−1)として提案した。

当時のデータ処理技術や、自治体のデータ蓄積の状況では夢のようなアイデアであったが、それが生れたのは一九六一年の警視庁・自衛隊の「大量対策研究資料」に興味を持ったことと、六本木の自衛隊の地誌班の資料室を見せてもらう機会に恵まれたからであった。自衛隊の地誌班の資料は手書きであったが、都市の危機管理に必要なほとんどのデータが盛り込まれていた。
都市の安全管理のためのデータを可能な限り集めたいと考えていた時、一九六八年五月一六日に十勝沖地震が発生し、石油ストーブの転倒による火災が多く発生した。地震の時実際に火が着いていた石油ストーブがいくつで、そのうち何件出火したかの調査を、青森県の十和田市で行うことが出来、六八〇の火の着いた火器から九件の火災発生という数字を得ることが出来た。これが一・三二%という出火率で、これを東京都の被害想定に導入すると対策が立たないぐらいの出火数になることから、石油ストーブに対量自動消火装置を付けなければならなくなった。この調査は社会的に大きな反響を引き起こしたばかりでなく、本当の地震対策の資料のあるべき姿を示してくれ、横浜市が昭和四七年に出版した「危険エネルギー」※2の報告書づくりの作業が横浜市消防局で始まった。
この「危険エネルギー」の報告書と、「都市安全管理システム」の考え方は、アメリカ・カリフォルニア州で、災害対策に地理情報システムを導入するきっかけとなった。一九七九年から三年間、アメリカ科学財団の研究費
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